2015年03月23日
「いもねこ」が、武力ではなく心による平和を願う理由
3月の初旬、某新聞に僕の連載コラムが掲載されました。
1月はデスクによる自主規制のため没になったので、
3ヶ月ぶりです。
今回も「社の方針と異なる部分」は削られましたが、
ここには僕が書いた初稿を載せさせていただきます。
「武力が国を守ってくれる」と短絡的に考えがちな
今の日本の雰囲気に対して疑問を持ち、
「いもねこ」が
「心による平和への努力」を願うわけが書かれています。
(写真は、実際に掲載された内容です。)
▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽
「少年犯罪と力への依存」
僕の「友達」が集団暴行によって命を奪われてから、
もう二十年近くになる。
当時彼は十五歳の若さだった。
まだ彼が中学二年の頃、僕の勤務校へ
一人で遊びに来たのが付き合いの始まりだった。
複雑な家庭環境で寂しかった彼はとても人懐っこく、
優しい不登校少年だった。
自信のなさの裏返しで
一生懸命背伸びしていることもはっきりとわかった。
何度となく学校へ遊びに来た彼を家に招き、食事をし、
勉強を教えたこともあった。
その後訪れる回数は次第に減り、定時制高校に進学した後は
全く顔を見せなくなった。
元気に過ごしているのだろうと思っていた。
彼が暴行を受け重体となったことを知ったのは、
その夏のある日だった。
駆けつけた僕を、 母親は集中治療室へ通してくれた。
そこには、全く別人のように変わり果てた彼の姿があった。
二度目の見舞いの後、彼は息を引き取った。
「もっと彼と関われれば」という後悔の念と、
「彼の死を無駄にしてはいけない」という想いが、
学校を退職してフリースクールを始めるきっかけにもなった。
あれからの歳月で、少年によるいじめや暴行、
殺人などの事件が何度繰り返されてきたことか。
先月も、川崎で凄惨な事件が起きてしまった。
こうした事件が起きるたび、人は口々に言う。
「なぜこんな酷いことをするのだろう?」
「加害者は絶対に許せない。」
「親や友達は何をしていたのだ?」
「なぜ周囲が気づいてやれなかったのか?」
ネットで加害者を晒し糾弾する「私刑」が横行し、
お決まりのように少年法改正や厳罰化の声が。
そして事件は風化してゆく。
ではなぜ、事件の反省は生かされないのか?
それは、人々の多くが
「力への依存」
というキーワードに気付かないからだ。
加害者に共通しているのは、
彼ら自身がいじめや暴力、虐待などを受けた体験を
持っていること。
これはDVに走る人も同じだ。
もちろん、そうした体験を持つ人が皆
同じことをするわけではない。
しかし「力による支配」を受けた人が、より弱い人を支配しようと
「力への依存」に陥るケースは明らかに多い。
自身が力づくで抑えられてきた経験と、
障壁に直面した時に力づくという短絡的解決に向かう傾向とは、
心理的に密接な関係がある。
しかし、多くの人はそこまで掘り下げず、
責任の矛先を探し攻撃し、厳罰化など対症療法に解決を求める。
人々自身が力に依存しているのだ。
日常のきめ細かい心配りによって
再発防止に努めるべきは言うまでもない。
しかし根絶するためには、
我々一人ひとりが優劣や強弱という価値基準を超え、
人と人との繋がりから生まれる
温かい心に満ちた社会にしてゆくしか道はない。
それに反し、社会は逆に進んでいる。
現政権、国民が、集団的自衛権容認や憲法改正などによって、
武力への依存に向かいつつあることがその象徴であろう。
この流れは、子どもの世界をも殺伐としたものにする。
今回の事件が、後藤さん殺害を想起させるものであるように。
そして悲劇は今後も繰り返されてゆくだろう。
人が愚かにも繰り返してきた、
戦争、紛争、テロリズムも、全て同じ。
「力への依存」の先にあるのは「暴力の連鎖」だけなのだ。

1月はデスクによる自主規制のため没になったので、
3ヶ月ぶりです。
今回も「社の方針と異なる部分」は削られましたが、
ここには僕が書いた初稿を載せさせていただきます。
「武力が国を守ってくれる」と短絡的に考えがちな
今の日本の雰囲気に対して疑問を持ち、
「いもねこ」が
「心による平和への努力」を願うわけが書かれています。
(写真は、実際に掲載された内容です。)
▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽
「少年犯罪と力への依存」
僕の「友達」が集団暴行によって命を奪われてから、
もう二十年近くになる。
当時彼は十五歳の若さだった。
まだ彼が中学二年の頃、僕の勤務校へ
一人で遊びに来たのが付き合いの始まりだった。
複雑な家庭環境で寂しかった彼はとても人懐っこく、
優しい不登校少年だった。
自信のなさの裏返しで
一生懸命背伸びしていることもはっきりとわかった。
何度となく学校へ遊びに来た彼を家に招き、食事をし、
勉強を教えたこともあった。
その後訪れる回数は次第に減り、定時制高校に進学した後は
全く顔を見せなくなった。
元気に過ごしているのだろうと思っていた。
彼が暴行を受け重体となったことを知ったのは、
その夏のある日だった。
駆けつけた僕を、 母親は集中治療室へ通してくれた。
そこには、全く別人のように変わり果てた彼の姿があった。
二度目の見舞いの後、彼は息を引き取った。
「もっと彼と関われれば」という後悔の念と、
「彼の死を無駄にしてはいけない」という想いが、
学校を退職してフリースクールを始めるきっかけにもなった。
あれからの歳月で、少年によるいじめや暴行、
殺人などの事件が何度繰り返されてきたことか。
先月も、川崎で凄惨な事件が起きてしまった。
こうした事件が起きるたび、人は口々に言う。
「なぜこんな酷いことをするのだろう?」
「加害者は絶対に許せない。」
「親や友達は何をしていたのだ?」
「なぜ周囲が気づいてやれなかったのか?」
ネットで加害者を晒し糾弾する「私刑」が横行し、
お決まりのように少年法改正や厳罰化の声が。
そして事件は風化してゆく。
ではなぜ、事件の反省は生かされないのか?
それは、人々の多くが
「力への依存」
というキーワードに気付かないからだ。
加害者に共通しているのは、
彼ら自身がいじめや暴力、虐待などを受けた体験を
持っていること。
これはDVに走る人も同じだ。
もちろん、そうした体験を持つ人が皆
同じことをするわけではない。
しかし「力による支配」を受けた人が、より弱い人を支配しようと
「力への依存」に陥るケースは明らかに多い。
自身が力づくで抑えられてきた経験と、
障壁に直面した時に力づくという短絡的解決に向かう傾向とは、
心理的に密接な関係がある。
しかし、多くの人はそこまで掘り下げず、
責任の矛先を探し攻撃し、厳罰化など対症療法に解決を求める。
人々自身が力に依存しているのだ。
日常のきめ細かい心配りによって
再発防止に努めるべきは言うまでもない。
しかし根絶するためには、
我々一人ひとりが優劣や強弱という価値基準を超え、
人と人との繋がりから生まれる
温かい心に満ちた社会にしてゆくしか道はない。
それに反し、社会は逆に進んでいる。
現政権、国民が、集団的自衛権容認や憲法改正などによって、
武力への依存に向かいつつあることがその象徴であろう。
この流れは、子どもの世界をも殺伐としたものにする。
今回の事件が、後藤さん殺害を想起させるものであるように。
そして悲劇は今後も繰り返されてゆくだろう。
人が愚かにも繰り返してきた、
戦争、紛争、テロリズムも、全て同じ。
「力への依存」の先にあるのは「暴力の連鎖」だけなのだ。

Posted by いもねこ at 09:07│Comments(0)